映画「ハムレット」の演出から考えた古楽 [日々の想い]
前回ご紹介した映画「ハムレット」を見ていて感じたことを少し。
この映画は、シェイクスピアでありながら、
衣装や美術などの演出は19世紀のテイストで製作されています。
エリザベス一世関連の映画で見られたような
フリフリのえり飾りや面白いカツラの登場を期待していると、
思わぬ肩透かしをくわされてしまうのですが、
これが予想外に、とても良かったのですよ。
女性たちは床までのロングドレスを着ているものの、
男性たちは、現代のフォーマル・スーツに近い感じ。
決闘するシーンは、オリンピックのフェンシングの試合を見ているよう。
ハムレットが真剣なセリフを語っている時に、何としたことか、
私にはハムレットが「綿シャツにジーンズ」姿の青年に見えた瞬間が
少なからずあったのです。
現代人の私たちにも親近感を覚える外見の印象によって、
(原作を忠実に再現したという、最も肝心な)「言葉」は、
かえって力を持って確実にこちらに刺さってきます。
オフィーリアの狂乱のシーンに関する描写は、
現・近代の精神病院での様子(拘束着や入浴)を再現したと思われ、
他人事では済まされない狂気として迫ってきます。
登場人物は私たちの身近にいる人物あるいは自分自身のように見え、
たやすく感情移入してしまいます。
そのように演出されているわけです。
そう考えると、時代様式を再現した映画は美しいものの、
衣装や美術に目を奪われて忙しく、もしかしたら大切なメッセージを
読み取り損ねていたかも、と思い当たります。
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以下は、何か特定のことに対しての批判ではなくて、自省です。
「シェイクスピアは全世界で上演され普遍的な人気を保っているのに、
同時代の文化である古楽は、なぜこれほどまでにマイナーなのか」と
ある方に訊かれたことがあります。
その時、私は全く違う視点からの返答をしたのですが、
もしかしたら、歴史的な解釈、様式にこだわりすぎてしまっているのかも、
と今回映画を見つつ思いました。
シェイクスピアの演劇では、もうだいぶ以前から、
それぞれの国の様式による、現代的な演出が行われています。
我が国ではそれこそ先に挙げた坪内逍遥もそうですし、
その最たるものは蜷川幸雄氏の演出でしょう。
シェイクスピアはそれぞれの時代の様式で消化されて、
広がり、続いてきたのではないでしょうか。
古楽は、一部分はいわゆるクラシック音楽へと吸収されていき
他方で(貴族社会と共に)一度断絶したのち復活した音楽なので
簡単に演劇と同列にはできませんが、
もっと自由な、現代人の側からのアプローチや演奏会のスタイル、
「こだわりどころの取捨選択」があっても良いかなあと思います。
演劇における「言葉」は、私は古楽においては「作品」だと考えますが、
その定義も人それぞれに自由でよいと思います。
大切なのは「こうでなければ古楽でない」とか
「歴史的にはこうだから、そうでないのは偽物」的な物言いをしている限り、
古楽はいつまでたっても消化されない、
つまり今の私たちにとって異物として胃の中に残り続けるということ。
誰が好き好んで「胃もたれ」する食べ物を食べたいと思うでしょう。
IT技術や音楽学の研究が進んで明らかになることは多く、
一方でその情報に縛られることも多いこの頃。
知識として学び続けるのは当然としても、
演奏においては、400年の時差をやすやすと飛び越えるアプローチがあるんじゃないか?
とより自由な発想で模索していきたいなあと思いました。
せめて、楽器を持っている時は、すべて忘れて無邪気に作品の世界に没頭したい。
If music be the food of love, play on ・・・の気持ちで!
(「十二夜」)