オフィーリアとリュート [愛しのリュート達]
John Everett Millais (1829-1896)“Ophelia”
シェイクスピアの作品とバラッド・チューンとの関連を調べるうちに、
興味深い論文を見つけましたので、ご紹介しておきます。
論文「“Let her come in” ーー『ハムレット』におけるオフィーリアのバラッド歌唱と政治的危機」
京都大学大学院 喜多野裕子氏
『ハムレット』に狂女として登場するオフィーリアが、劇中でバラッドチューンを歌うという
シーンがいくつか出てきます。
その意味について、民衆と貴族という階層の構造から捉えた解釈がなされています。
これについて興味がある方は、ぜひ論文本文をご覧頂くとして、
その周辺情報としてリュートについての記述が他に例を見たことがないものだったので、
ここで引用しておきます。
シェイクスピアの作品にはいくつかの版あり、
普段私たちが目にする一般書籍での「ハムレット」にはリュートは登場しません。
(*文末にこの表記について、訂正があります。8月19日)
しかしながら、別の版(Q1と呼ばれる)でのオフィーリアが歌いながら登場するシーンには
「リュートを演奏しながら」というト書きがあります。
それに関する喜多野氏の指摘。
・・・当時の貴族は楽器を嗜んではいたものの、人前や公の場で演奏することは
貴族と演奏者間の主従関係を崩壊させるとしてふさわしくない行為だとされていた。
(中略)
オフィーリアの狂気がリュートの携帯につながり、階級の撹乱が強調される。
初期近代イングランドにおいては、精神的に崩壊した貴族女性が楽器を演奏しつつ
王や王妃の目前でバラッドを歌うという設定自体が衝撃的であり、
劇的効果も高かった可能性が高い。・・・
さらに、オフィーリアは貴族の女性だが、狂女としてバラッド(小謡)を歌うということで、
宮廷へ抗議する民衆の側に立つ役割を果たしており、
その階級の撹乱は「人前でリュートを弾く」という所作として演出されている、と
論が展開していきます。
リュートで伴奏しながら歌った方が音程が取りやすい、という役者の都合なんじゃないの?
と、単純に私は思ったのですが、なかなか深い意味があるんですね。
そもそも「ハムレット」ってどんな物語だったっけ、と、
上記論文を読んだ上で、もう一度、映画でおさらいすることにしました。
(続きます)
(*訂正:記事を公開した後に「福田恒存訳にはリュートが登場する」ということと、
「安西徹雄訳のQ1が出版されている」というご教示をいただきました。
各種、日本語翻訳本で、この箇所、第4幕第5場がどういう訳になっているのか、
比較した記事をただいま用意しています。)
書きました。「オフィーリアはリュートを弾くのか抱くのか問題」